常識・非常識

「保護者の『無理難題』」エントリへのコメントがとても興味深かったので、新たにエントリを立てる。
「園長のひとりごと」ではなく「身辺雑記」カテゴリにした。幼稚園長という立場を超えて、一人の人間として考えたかったから。



コメントの中でjunさんは、「その要求は、概ねかなり理不尽なものであったりするわけです。それはおかしい、と思うのですが、あまりに自信たっぷりなのでもしや自分の常識がおかしいのか?と不安になります」と書かれている。

そういうことはたくさんある。
たとえば短大の学生たちとの常識の差。
私は、保育者は茶髪ではいけないと思っている。ところが学生はそう思っていない。「自分を表現する手段だから禁止する方がおかしい」とさえ言う。

junさんの思う常識・非常識よりは正否がわかりづらい事柄かも知れないが、少なくとも私としては、カルチャーショックならぬ常識ショックであった。
もっとショックだったのは、この話を園長仲間にしたところ、私に全面的に賛同してくれたのはとても少数だったこと。
同年代、あるいは私より上の年代の人さえ、「しょうがないんじゃない?」と答えたのだ。

それで思ったこと。
常識・非常識とは相対的なもので、しかも時代とともに変化するのだ。言い方を変えれば、「絶対的な常識」なんてないのだ。もっと言い方を変えれば、常識に絶対的な根拠なんてないということだ。
「そんなことはない、常識とは人間関係や社会を維持していくための絶対的装置だ」という反論が出てきそうである。
でもね、私たちが絶対的な常識と考える「人を殺してはいけない」ということだって、根拠は何?周囲が悲しむから?じゃ、周囲が悲しまなければ殺人はOK?
ね、根拠は希薄でしょ?
ということは、「殺人も状況によっては可」とする人たちが多数を占めれば、その常識も変わるということだ(戦争はそういう考えに基づいている。そう考えなければそのような大量殺人は許されないはずだ)。
そう考えれば、すべての伝統的な常識は、いつでも批判され覆される可能性をはらんでいる、ということになる。いや、最近できた常識でさえ、同じ運命をはらんでいる。
常識は良くも悪くも民主主義的なのだ。

女子中高生の間では、ちょっと前まで「ルーズソックス」が常識だった。でも今は、そんなのは非常識だ。紺ソックス。これが今の常識。今どきルーズソックスはめちゃくちゃ恥ずかしい。マンバも同様。

junさんの言う「コミュニケーション下手」というのも、若い人たちなりのコミュニケーションの方法は、私たちから見れば「下手」「コミュニケーションの常識を知らない」という評価になるけれど、彼らから見れば、私たちのコミュニケーションの方が「相手に深く立ち入りすぎる」「余計なお世話」「話が長い」などと、非常識扱いされているのだろうと思う。

「幼稚園に無理難題」も、「それは当たり前のこと」と考える保護者が増えれば、それが常識になる。
そういう常識を、みんなが望むなら社会もその方向へ変化していく。そうなったら古い世代がいくらあらがってもムダだ。

ただ。
そんな世の中(幼稚園が保護者の言いなりになるような)になるのなら、私は園長を辞める。
決して「俺は保護者の言うことなんか聞かない。保護者はひれ伏せばいいんだ」ということではない。保護者と幼稚園がお互いの立場を理解しながら主張し合い、よりよき解決策を探っていくという、きわめて日本的な文化を大切にしたいのだ。
幼稚園はお偉い機関ではない(そう思っている園長もいることは認めるが)。でも、お客のニーズを何でも引き受けて節操をなくすようなサービス業でもないと、私は考えるのだ。
by cotets | 2005-07-06 22:24


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